年初に「今年は乱気流の時代になりますよ」と申し上げたわけですが、また、とんでもないことが起こりました。中国で新型コロナウイルスが拡がり、世界中に大きな影響を与えています。この間まで、中国政府は香港のデモで市民がマスクをしているのを止めさせろと「マスク禁止令」を発令しようとしていたわけですが、皮肉なことに習近平書記長ご自身がマスクを手放せないようになっています。

ここまで広がった理由としては、最初の発症から武漢封鎖までかなり時間が経っていたからで、その間に武漢市の人口の半分近い5百万人くらいが出て行ってしまったようです。なぜそんなことになったかと言うと、現場が悪い情報を隠蔽していたためだとか細菌兵器の開発を隠すためだとか言われています。

今後とも予期せぬことが次々に起こるかもしれません。

 

さて、今月は「三方よし」とは何かというテーマでお話をしたいと思います。経営セミナーなどに出ると、よく商売の基本は「三方よし」であると言われます。

「三方よし」とは、「売り手よし・買い手よし・世間よし」のことで、商売に際しては、自分の利益だけを考えてはだめで、お客様に満足してもらうと同時に、社会貢献もしなくてはならないという、商道徳的な意味で考えられているように思います。(坂本先生の本では『五方よし』のバランスの取れた経営が大事だと紹介されています。)

来期以降の経営を考えるにあたり、「三方よし」とは何かをもう一段深く考えてみようと思い立ち、12月と1月の2ヵ月続けて近江商人発祥の地である近江八幡へ行ってきたので、そこで考えたことをお話したいと思います。

 

「三方よし」のルーツは、近江商人

近江八幡市の日牟礼神社のあたりは、倉敷の美観地区にも似た景観で、小舟で堀めぐりができるようになっていて、そこに“近江商人とは”何かを説明する看板が立っていました。

どんなことが書かれているかというと、

“近江商人とは 近江で商いを行う商人ではなく、近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称である。個別には「高屋商人、八幡商人、日野商人、湖東商人」などと呼ばれます。それぞれ特定の地域から発祥し、活躍した場所や取り扱う商品にも様々な違いがあるのも特徴です。”

と書いてあります。

近江は、織田信長や豊臣秀吉が商業政策として楽市・楽座を導入した地域です。戦国末期には高島商人が、京都・岩手を中心とする東北地方に出向き、呉服、油などを商いました。江戸初期には八幡商人がなんと北海道まで行って商いをしていました。江戸中期には日野商人が、北関東、東北、九州へと活躍の場所を拡げ、江戸後期に出てきた湖東商人は、信州、東国、京都、大阪、北海道で活躍しました。商っていたものは、繊維製品と地域の物産ですが、これが伊藤忠商事をはじめとする日本の総合商社の原型にもなっています。

また、近江聖人と称えられた中江藤樹が、儒教倫理を実践哲学(陽明学)として広めたことが、商道徳になっていったという流れもあります。ちなみに、岡山では中江藤樹のお弟子さんである熊沢蕃山が、地元の岡山に帰り、池田の殿様に陽明学を勧め、池田の殿様が世界最初の庶民学校である閑谷学校を津田永忠に作らせたわけです。

 

“近江商人とは”の看板には、近江商人語録も載っています。

冒頭に「商人の本務」として、次のように書かれています。

“商人に必要なのは才覚と算用と言われます。しかし、近江は巧妙な計算や企てを良しとせず、世の中の過不足を補い、需要と供給を調整することを本務としています

 

商売には、才覚と算用が必要である。才覚とは、商売センスのことでしょう。それと算用=算盤(ソロバン)勘定ができること、損得勘定ができる財務的スキルのことでしょう。

商人には、金儲けのセンスとスキルの両方が大切だというのが常識だが、近江商人は違うのだと言っています。そういう計算高い金もうけをよしとはせず、ひたすら世の中の過不足を補い、需要と供給を調整することが目的とすることを本務にしていると書いてあります。

私も、常々価格競争から脱却するためには、「有効供給の創造」をし、「WTPを創造する」ことが大事だと言い続けていますが、近江商人は、江戸時代から、日本国中を視野に入れて「有効供給の創造」を使命とし、国中を飛び回っていたわけです。

 

さらに、「商人倫理と販売戦略」として次のようなことが紹介されています。

“近江商人は江戸時代中期にはすでに複式簿記を確立させ、経営状況を把握していました。行商では遠い他国まで出かけることで、儲けたいという欲が自ずと出ますが、そうした欲望を抑えるため神仏への信心をもつことを進めるなど、卓越した経営感覚と倫理観を持ち合わせていました。そのような基礎の元に、人と同じ事をしていてはお客様の気持ちを掴めないと様々なアイデアを出しています” 

 

これもびっくりしたのですが、江戸時代に、すでに複式簿記できちんとした経理処理をしていたようです。どんぶり勘定などではなく、公明正大な経理処理をして、商売の内容を記録していたわけです。また、遠くの国まで出かけて、その土地にないものを売るので、いくら高く売っても構わないわけですが、そういうあくどい商売をしないように、行き過ぎた利益欲を抑えるために、信心を勧めたと書いてあります。これは、仏教で言う布施の心、喜捨の心を勧めたということでしょう。喜捨とは、喜んで捨てると書きますが、お金への過度な執着を捨てることです。商売の上手な人はお金に執着しやすいので気を付けないと身を滅ぼしてしまうからです。こういう卓越した経営感覚と倫理感覚、これは近江商人が「論語とそろばん」の双方を兼ね備えていたということです。

さらに、「武士は敬して遠ざけよ」ということで、

“地域経済を左右するほどの実力者となると、大名との付き合いも多くなります。しかし、近江商人は権力に依存して利益を得ることを良しとはしませんでした。”

と書いてあります。武士は尊敬すべきではあるが、その権力に頼って利益を上げるようなことはしないということです。こういうところにも、近江商人のプライド、矜持を感じていただけると思います。

 

セリオの経営戦略と近江商人道

当社の経営戦略と通常の競争戦略を比較すると、下記の表のような感じですが、結局、近江商人が目指していたものも同じ非競争戦略だと思いました。

 

①一般的には、吉野家の「早い、安い、うまい」に代表されるような、他社よりもBetterな商品・サービス、他社より安く、早いサービスを提供して差別化を図ろうとするわけです。しかし、セリオも近江商人も、他とはDifferentなもの、他にはできない何かを提供して差別化を図ることを目指しています。

➁さらに、競争に勝つためには、景気や流行を予測し売れそうなものを提供する必要があります。今冬のように暖冬だとダウンジャケット、スキーウエア等、寒いから売れるものが全く売れないでしょう。そのように外部環境の変化に影響されやすい商売は不安定なわけです。景気や流行の見込みが外れると大損しますし、他社と比較して価格を考えねばなりません。わが社では、景気や流行に関係なくWTPで提供することを考えましょうと言い続けています。景気や流行に関係なくお客が喜んで買いたくなるのが非競争戦略です。

③競争戦略では、勝者、敗者がでてきます。条件次第でお客さんに買うか否かが判断されるからです。それに対して非競争戦略には勝敗という概念はありません。わが社が目指しているのは、余人を以て替えがたい商いです。お客さんから是非セリオさんにやってもらいたい、セリオさんにしか頼めないと言っていただけるような仕事のことです。

④競争戦略は規模のメリットがあるため、大量生産、薄利多売が有利となり、大規模な合理化投資ができる大企業に非常に有利です。モノが不足している時代にはこの戦略が有効だったと言えます。たかだか50年前の話ですが、家にクーラーやカラーテレビがない時代には作れば作るほど売れた時代でした。そういう時代は、中小企業は勝ち組の大企業の言いなりになって下請けをしていたら、一生食いっぱぐれがなく、安心していられる時代でしたが、ご存じのようにそのような時代はとっくに終わりました。ニッチを狙い非価格競争戦略を実現するには小回りが利く中小企業が有利です。近江商人は、「武士は敬して遠ざけよ」で、当時から国や大企業に依存しない方針だったということです。

競争戦略においては、しばしば「勝ち組」「負け組」という概念を使います。先月、黒字化リストラの話をしましたが、先日も新聞にある大手IT企業が前年比50%増益であるにもかかわらず、50歳代の中堅社員を中心に何千人もリストラしようとしているという記事が掲載されていました。そういう時にリストラのリストに載せられた人は多分「負け組」と言われていると思います。個人的には、同じ会社の中に、「勝ち組」「負け組」を作るような会社の経営者は許しがたい気がします。なぜ助け合って、共存共栄しようとしないのでしょうか。

 

Ex.「半沢直樹」に見る減点主義

4月から、また「半沢直樹」のドラマがスタートするようですが、大銀行の人事評価の基本は減点主義です。私もいたのでよく知っていますが、個人を徹底して競わせる優勝劣敗の企業風土です。同じ支店の中で、ノルマを課して競わせるのです。ノルマを達成できず、×が付いたら、その一つの×で「負け組」に入ってしまうこともあります。仮に、シビアなノルマを達成しても、更に出世するには「勝ち組」の派閥に入らねばなりません。やっと派閥争いに勝利しても、このご時世「勝ち組」に入りさえすれば安泰だというのは甘い妄想です。そこからまた泥沼の競争が繰り広げられます。一方、一度「負け組」に入ったとしても、何をしても無駄だというわけではありません。敗者復活もあり得るのです。多分今度の半沢直樹はそういう展開になるのではないかと予測しています。

 

Ex.「十二番目の天使」に見る加点主義

わが社の基本はセルフヘルプを前提としたチーム戦です。チーム一岩となってOne Teamで力を高めていくことを目指しています。

私の愛読書である『12番目の天使』という小説は、アメリカの野球のリトルリーグを題材にした物語です。アメリカのリトルリーグには、チームに所属する子どもは、全員が必ず一度は守備につき、バッターとして出場しなくてはならないというルールがあります。この小説では、ティモシーという主人公の少年が、すごく守備が下手で肝心のところでエラーをするし、チャンスにバッターボックスに入っても三振しかしません。ところが、彼は何度失敗しても、悪びれることなく「僕は、毎日あらゆる面でよくなっている」「絶対、絶対あきらめないぞ!」と言い続け、必死に努力するのです。チームメイトたちは、いつしか、そんなティモシーを誇りに思うようになります。そんな物語です。

これは、ある塾の経営者に聞いた話ですが、例えば、チームで計算力を競うコンテストをしたとします。アメリカでは、計算がよく出来る子が偉いわけではなく、出来ない子がダメなわけでもない。チームでどう戦うか、どう総合力を高めるかを大切にするそうです。できる子は、できない子が少しでもできるようになるかを考え、できない子は、できる子からどうやって学ぶかを考えるのだそうです。そして、多様な社会の中で、多様な才能を受け入れていくためには。こういうコミュニケーションが必要だということを学ばせるのだそうです。私が言いたいOne Teamとはこういうことです。できる子ができない子に教える、できない子ができる子から学び取る、これこそが本当のコミュニケーション能力です。基本は、加点主義です。そして、チーム戦(For The Team)を覚えさせるのが教育であると思います。

その方は、ところが、日本ではそういう教え方をしていない。出来る子はどんどん伸ばしていき、出来ない子は補欠で出場機会が与えられないということになりがちだと言います。また、誰かがミスして試合に負けたら、あいつのせいで負けたということになり、チームにいられなくなるようなこともおきるのだそうです。そういう風に悪いことが起きると誰かに責任を押し付けて、追求していく、これが減点主義です。会社でも日本はそういう風土の会社はたくさんあると思います。

 

 

わが社の経営理念と「三方よし」の共通点とは

戦略的にはこのような事ですが、私が、何が言いたいかというと競争戦略をとっている会社の人が考える「三方よし」と、非競争戦略をとっている会社の人が考える「三方よし」では、全然違っているのではないかということです。そもそも近江商人が言っていた「三方よし」は、明らかに非競争戦略なのだが、そうは理解されていない面もあると感じました。

少し話は変わりますが、わが社の経営理念は、10年前、SERIO2.0(第二の創業)の際に、私が決めたことです。それは、決して「善いこと」をしようと決めたわけではありません。坂本先生の本に書いてあったからでもなく、稲盛さんなど有名な経営者が言っていたからでもありません。正直に言って、社長をやる上で、それ以外に「やる気(モチベーション)」が維持できなかったからです。私の個人的な信念だったわけですが、言葉を換えれば、それが「好き」だったからです。

たとえば、こうして朝礼で一時間近く話をするのも、毎月、社長塾と称し経営幹部を育てる研修をしているのも好きでやっていることです。毎回違う話をするので、仕込みにはそれなりに時間と労力がかかるのですが、やりたくてやっていることなので、努力感はありません。

その背景には、商売というものは、「~セネバナラナイ」という義務感でするものではなく、心底「好き」で「面白い」と思うことを自由意志でするものであるという基本姿勢があります。わが社の経営理念は、私がしたいこと、好きなことであり、仕事をする上でのドライバー(誘因)であるわけです。

皆さんには、どんなドライバーがありますか?それは、心の中に、ふつふつとエネルギーが湧き出てくる源泉、枯れない泉のことです。自家発電して、自分で自分のやる気を出せるもののことです。

私は、今回近江八幡を訪問し、近江商人とその末裔の商いを観察して、彼らが、天秤棒一つで、はるか遠く北海道や東北へ商売に行ったドライバーは何かを考えました。そして、彼らは「三方よし」をドライバーにしていたのではないかと思ったのです。

 

私が感じた近江商人のドライバーとしての「三方よし」

 

私が感じた「三方よし」とは、大好きなことをして(=自分よし)、それだけだと趣味になりますから、仲間の役に立ち(=相手よし)、お客さんに喜ばれ(=相手よし)、世の中の役に立つ(=世間よし)ということです。

それは、「強みを活かす」ということでもあり、「好き」がドライバー(誘因)になっている人は、努力が苦にならないどころか、努力とも思いません。努力即幸福であり、しかも好きなことをした結果、お金が儲かって、感謝までされるというインセンティブ(おまけ)までついてくるので、ますます好きになっていくわけです。これを収穫逓増の法則といいます。私は、近江商人は、商いは自由意志でするもので、自由には「選択の自由」と「創造の自由」があり、商いとはこの二つを駆使してするものだと考えていたのではないかと感じました。近江商人たちは、だれに強制されるのでもなく、自分の自由意思で「選択の自由」と「創造の自由」を駆使して日本中を飛び回っていたのだと思いました。そう考えると、その末裔が世界中を飛び回っている総合商社マンたちであるというのはすごく腑に落ちます。

 

ところが、「三方よし」が「義務感」「~セネバナラナイこと」だったらどうでしょうか?社長が、それは昔から続いているわが社の家訓であり、他社との商売に勝つための戦略だからと言って後継者や社員に「押し付けた」としたらどうでしょうか?「正しいことだから」とか、「先祖から続いているから」と言われるとなかなか逆らえるものではありません。しかし、たとえ、「いいこと」であろうと「ネバナラナイ」を強制されることは「自由」な発想を奪うことにつながるのではないかと思います。

こういう「ネバナラナイ族」の会社が、他社と競争して勝つことを自分よしとして、三方よしという価値観を強制された社員は、本来おまけであるはずの「昇給」や「出世」や「名誉」などの「インセンティブ」を誘因にしないと努力が続かないのではないかと思いました。

しかし、この手のインセンティブには、もらえばもらうほどありがたみがなくなるという収穫逓減の法則が働きますし、必ず限界があります。なぜなら商売は一本調子ではありませんし、好況も不況もあるからです。努力しても成果が出ないこともありますし、長い人生では、失敗もし、降格もあれば減俸もあるからです。

私がこれまでの人生で見てきた限りではありますが、「給料」や「肩書」など自分の自由にならないものをインセンティブ(=自分よし)にしている人は、極めてアゲインスト(逆境)に脆いという特徴があります。逆に、「大好き」を「自分よし」にしている人は、逆境になればなるほどモチベーションが上がるのです。困難に挑戦して、壁を乗り越えることがやりがいになるからです。

これは、どっちがいいとか悪いとかではなく、みなさんはどちらを選択しますかという問いかけです。会社の戦略としては、前者のような組織にはしたくないということは申し上げておきます。

 

わが社が目指す三方よしとは

 

売り手よし = 「好き」がドライバーになっている、努力が苦にならないから上達する

買い手よし =   お客さんの喜ぶことを心底考える、結果として成果が出る、感謝される

世間よし  =  ひいては世の中の役に立つ、見合った報酬が得られ、益々「好き」になる

こういう好循環にしていきたい、これが我が社の経営戦略であります。つまりは、お金で買えないもの(プライスレス)が一番お金を生む(プライスフル)という逆説があるということです。好きをドライバーにしていくと、より発展繁栄していくということです。

今後とも、そういう意味での「三方よし」をわが社の経営戦略として活かしていきたいと思います。