今月も、「SERIO4.0」 と名付けた来年から始まる中長期計画のメインテーマである『Be Creative!  How to become a Creative Person』についてお話したいと思います。

年末も近づき、恒例の人生計画を更新する時期になりました。このテーマは、来年の人生計画手帳の目標に書く私の『ありたい姿』でもあります。クリエイティブな人間になりたいと思い、How to become a Creative Personを日々考え、Yes, I can!と毎日毎日唱えていると私のような凡人でも何か創造的な仕事ができるようになるのではないかと思っています。

前々回、前回は、近い未来に起きることを考えれば、クリエイティブな人間になることが皆さんの幸せに大きく影響すると思いますよという話をしました。それは、デジタル社会に代表される乱気流の時代において、AIに代替されない「創造的な仕事」ができるかどうかにかかっているのではないかという問題提起でした。

セリオの会社のロゴマークは鳥の羽がモチーフですが、隼のように自由に羽ばたくようになりたいというイメージを表しています。自由に羽ばたける環境はこの10年で作ってきました。それは、社員が自分の意思で自分の将来を決めることができる―「選択の自由」を持つ会社にしてきたということです。では、なぜ、SEIRIO4.0なのかというと、それは、社員が会社から与えられた選択肢を選ぶ「選択の自由」の次の段階である「創造の自由」を行使する段階を目指しましょうということです。私自身も社員の皆さんも翼を持ち自由に飛翔していける会社にしていきたいのです。

 

今日は「創造的な仕事をするために」というテーマで、ヒントになる事例をご紹介したいと思います。

最初にプロローグとして、私の経験をお話します。題して「成功の入り口」です。

 

成功の入り口」

 

順調に歩んできた人生でしたが、

30歳後半からいくつか大きな失敗をしました。

反省し、努力してもまた失敗し、挫折して、傷つき、

自分はダメなのではないかと思うこともありました。

 

とうとう失業して、仕事もなくなり、途方に暮れていた時、ある人から、

「あなたもやっと成功の入り口に立てたね」と言われたのです。

 

これは、私にとって大きな『一転語』でした。

 

ものの見方、考え方を全く逆にしてくれた言葉です。

この一言がなかったら、永年苦労して歩んできた道を引き返していたかもしれません。

 

その後、色々な経験をし、不思議な縁でこの会社の経営者になり、

「社員の幸福を実現する」という終わりのない目標を経営理念に掲げました。

 

何度か、自分の力だけではどうにもならないような苦境に立たされたこともありましたが、その度に「これでやっと成功の入り口に立てた」と言い聞かせてきました。

 

 

経営者として、私の最大の仕事は「祈る」ことだと思い、毎月ご祈願を続けています。

奇跡やご利益を祈ったことはありません。

理念実現のために、自分の心の汚れを落とし、心の中の発動機を回させてくださいと祈るのです。

 

もうひとつ、経営者としての大切な仕事として、大きな困難を乗り越え、

奇跡的な成功を収めてこられた先輩経営者の方々に教えを乞うことを続けています。

皆さん、偶然や奇跡に頼ることなく、失敗の山を踏み越え、

淡々と苦難や困難に向き合ってこられた方々です。

その方々に共通していること。

 

それは、名誉や地位や財産などには目もくれず、高貴な義務を自らに課し、自分を鍛え続けてきた事実と限りない優しさです。

 

2年かかるか、3年かかるか、10年かかるか、分からないことを実現したいと「思い」、実践し続けている人がいたら、変人どころか気が狂っているように見えるかもしれません。

でも、それが「創造的な人間」になるための王道なのではないかと思います。

 

ちょっと解説します。

順調に歩んできた人生でした、というのは、ある程度そうだったのではないかと思います。地方ではありますが、比較的有名な私立中学・高校に入り、現役で大学に合格し、就職の際にも、オイルショック後の就職難の時代ではありましたが、一発で第一志望の大きな銀行に入り、都心の支店で数年過ごした後、丸の内の本店に異動し、有名な大企業ばかりを担当するという、サラリーマンとしては絵にかいたようなエリートコースを歩んできたわけです。

34歳で銀行を辞めてからも、次の組織で数年は順調だったのですが、役員的な立場になった40歳前くらいから、自分でも天井にぶつかったのがわかりました。今考えれば、あまりにも出世が速すぎたのと、しばらく力を貯めてから再起しなさいという意味での温情人事だったと思うのですが、左遷や降格も経験し、かなり落ち込みました。反省し、努力しても方向性が間違っているので、努力逆転になって失敗する繰り返しでした。挫折して、傷つき、自分はダメなのではないかと思うこともありました。軽い“うつ状態”になっていたと思います。そして、とうとう失業して、仕事もなくなり、家族を抱え、収入もなくなってしまったのです。

そんな時、「あなたもやっと成功の入り口に立てたね」と言われたのです。

これは、本当に、本当に私の人生観を180度変えてしまうくらいのまさに『一転語』でしたが、最初は、まったく意味が分かりませんでした。「今がまさに人生のドン底、失意のドン底だね。」と言われるならわかりますが、なぜこれが「成功の入り口」なんだろうと思いました。そして、幸い金銭的な貯えがあったので、この意味が本当に理解できるまで、1年くらいエネルギーを充電しよう、焦って仕事探しをするのはやめようと思い、毎日たくさん書物を読んだり、精神統一をしたりしてずっとその意味を考え続けました。

そして、私なりの答えを見つけたのです。今まで私が成功していたと思ってきたことは、本当の意味の成功ではなかった、これまでニセモノの成功を求めていたが、今やっと本物の成功への入り口に立てたのだという風に思えるようになりました。

どういうことかと言うと、それまでの私は、外部のモノサシで測れる基準—世間的に有名であることとか、高い年収とか、同期より早く出世することとか、地位や役職とか、そういうものを得ることが成功だと思い、それを手に入れようと必死に努力してきたことが分かりました。そして、誰かが引いてくれた成功のレールの上を他の人より早く走ることが成功だと考えていたのです。要するに成功の基準、幸福の基準が外部にあったのです。

ところが、人生の半分くらいに来た時に、そのレールから見事に脱線し、転落してしまったおかげで、これまでとは全く違うレールを自分で敷いて走るスタート地点に立てたのだと思ったのです。それは挫折でも失敗でもなく、自分だけの成功、自分の内なるモノサシで測ることのできる成功です。

 

そういう意味で、ものの見方、考え方を全く逆にしてくれた言葉です。本当にこの言葉に出会えたことに感謝しています。この一言がなかったら、永年苦労して歩んできた道を引き返していたかもしれません。

その後、色々な経験をし、不思議な縁でこの会社の経営者になり、「社員の幸福を実現する」という終わりのない目標を経営理念に掲げました。これまでご紹介したように、その後何度か、自分の力だけではどうにもならないような苦境に立たされたこともありましたが、その度に「これでやっと成功の入り口に立てた」と言い聞かせてきました。

 

経営者としての、私の最大の仕事は「祈る」ことだと変わったことが書いてありますが、これは常日頃本当に実行していることです。私は、毎月ご祈願をすることを自分に課しています。社員の皆さんが幸福になり健康でありますようにと祈ることはありますが、商売繁盛、事業成功という名目で奇跡やご利益を祈ったことはありません。ではどういうことを祈るのかと言うと、心が汚れていないか教えてくださいと祈っています。経営判断をしていく際に、私利私欲にとらわれることなく、私心なく純粋に理念実現のために、神様に見られても恥ずかしくない心で経営をさせてくださいと祈るのです。要するに、祈願は私にとって心の中の発動機を回すためのルーチンなのです。

 

もうひとつ、経営者としての大事な仕事として、大きな困難を乗り越え、奇跡的な成功を収めてこられた先輩経営者の方々に教えを乞うことを続けています。

まずは坂本先生です。先週はなんと4日間もご一緒させていただきました。本日は、以前朝礼でも紹介したことがある社会福祉法人雲南ひまわり福祉会の田本事務局長さんがゲスト参加してくださっていますが、もちろん当法人とのご縁をくださったのは坂本先生です。田本さんは、若い方ですが尊敬すべき立派な経営者です。福祉の業界では、離職者が多く大変なのですが、40数名の職員が在籍している雲南ひまわりさんはなんと8年間もひとりの退職者も出していません。6割、7割退職するのが当たり前の業界で、一人も辞めないのは奇跡です。2019年3月に「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」を受賞され、先般、人財部の皆さんたちと一緒に訪問し、その秘密を教えていただきました。

特徴的なことは、職員の定着や退職ゼロを目標にはしていないことです。退職ゼロというのはあくまでも結果であって目標ではないのです。様々な試行錯誤というか失敗の山を踏み越え、淡々とできることを実践してこられた結果が退職者ゼロという「奇跡」になったわけです。

私が理念を制定した時、最初に坂本先生にご紹介をお願いしたのが徳武産業の十河会長と日本レーザーの近藤会長です。

徳武産業は、高松のはずれの田んぼの真ん中にある小さな会社です。そんなところで世界中のお年寄りが安心してはける靴を作りたいという崇高な使命感で経営を続けておられます。結果的に介護用の靴のシェアでは日本ではトップになっていますが、それは結果にすぎないのです。この会社のすごいところは、いいものを世の中に広げるために特許をとっていないことです。12月9日NHK「逆転人生」に十河会長が出演されるそうですので、ぜひご覧ください。

近藤会長は当社のMBOの師匠でもあります。お二人とも結果的には奇跡のような経営を実践されていますが、直接お話を聞けば聞くほど、偶然でも奇跡でもありません。色々な苦難や困難に遭遇するたびに、社員のため、世のため、人のためを願い乗り越えてこられた方々です。

東海バネの渡辺会長や天彦産業の樋口社長は、人を大切にする経営、非価格競争経営など経営者としての「あり方」を教えてくださる師匠です。

 

こうした方々に共通していることは、名誉や地位や財産などには目もくれず、高貴な義務を自らに課し、自分を鍛え続けてきた事実と限りない優しさです。会社では厳しいが、性根が優しい方々ばかりで、親しくさせていただき、勉強させてもらっています。

 

2年かかるか、3年かかるか、10年かかるか分からないことを実現したいと「思い」、実践し続けている人がいたら、変人どころか気が狂っているように見えるかもしれません。というのは、多分そういう人を現在進行形で見るとちょっと大丈夫かという気がするわけです。

 

でも、それが「創造的な人間」になるための近道ではなく、王道なのではないか、これが今日の私の問題提起です。今日は、その実例とも言うべき方、偶然や奇跡に頼らないで、失敗の山を乗り越えて「創造的な仕事」をした方を二人ご紹介します。ぜひ一緒に考えていただきたいと思います。

 

一人目はこの方です。

 

William Kamkwamba(1987~)

先日の台風の影響で千葉県の一部地域が長期間停電になり、大変なことになりました。しかし、世界に目を向けると、まだ十億人以上の人たちが電気のない生活をしているそうです。当然、そういう国では食べ物にも困っています。世界の人口が80億人と言われていますが、なんとそのうちの10億人もの人が電気もなく、食べ物にも困る生活をしているのです。最初にご紹介するのはそういう国に生まれた少年が起こした小さな奇跡の話です。

 

今から20年ほど前の話です。東アフリカのマラウイという世界でいちばん貧しいといわれる小さな国にウィリアム・カムクワンバという少年が住んでいました。マラウイにも、自動車やラジオなどの電化製品が普及していましたが、彼の住んでいた田園地帯では、電気も引かれておらず、依然呪術師が一番権威を持っていました。国民の8割は農民で、自給自足の生活をしていました。生きていくためには、自分の畑で主食のトウモロコシを育てなければなりません。彼も、お父さんと朝から晩まで炎天下の畑を耕すのが毎日の仕事でしたが、彼の両親は、子供の教育が大事だと考え、苦しい家計の中から学校に行かせてくれました。しかし、マラウイの中学校は授業料を払えなくなると退学させられてしまいます。

ウィリアムは、小さいころから、モノが動く仕組みがどうなっているか知りたくてたまりませんでした。「ラジオはなぜ遠くの人の声を伝えることが出きるのか?」「自動車はなぜ動くのか?」「CDプレーヤーはなぜ音が出るのか?」などと大人に聞いて回りましたが、誰一人としてきちんと答えられる人はいませんでした。そこで彼はその疑問を自分で解くことにしました。何をしたかと言うと、ゴミ捨て場に捨ててあった壊れたラジオを分解し、むき出しの回路基板をじっと眺めて、リード線の一本一本が、どんな目的でどうつながっているかを考え続け、太い針金を熱してジョイントを溶かしたりつないだりして考えたそうです。

「誰がリード線をこんなふうにつなぐことを考えたのだろう。その人はこんなに素晴らしい知識をどうやって手に入れたのだろう」などと考えながら、試行錯誤を繰り返すうちに、彼はいつしかラジオの構造が理解できるようになりました。さらに周波数と受信の仕組みも理解できるようになり、とうとう壊れたラジオを修理できるようになったのです。そして、中学校に入るころには、捨てられていた電池をつなぎ合わせ、残っている電力でラジオを動かすことに成功し、ラジオ修理で小遣いを稼げるようにすらなります。

そんなころです。マラウイに大雨が降り、川は氾濫し、洪水になり田畑の作物は全滅してしまいました。その後、日照りが続いたため、主食であるトウモロコシの収穫は激減し、大飢饉になり、とうとう餓死者が出始めました。政府の援助も行き届かず、ウィリアムの住んでいた地域の商店街はゴーストタウン化し、彼の家でも一日一食の生活を余儀なくされました。もちろん学費を納めるどころではなくなり、彼は学校にも行けなくなりました。

多くの若者は、その地域を出ていくか、刹那的な欲望を満たそうと自堕落な生活に走りましたが、ウィリアムは父親の手伝いをするかたわら、誰も行かなくなった小学校の図書館に通い、英語で書かれた本を読もうと、独学で必死に勉強を始めました。特に、彼は、一番知りたかった機械を動かす仕組みが書いてある物理学の教科書の本を繰り返し、繰り返し読みました。

ある日、ウィリアムは『エネルギーの利用』というアメリカの教科書を手に取ります。その本には、風車を使って電力を発生させることができると書いてありました。そして、こう考えたそうです。

風が風車の羽を回し、ダイナモの中の磁石を回転させ、電力を生み出す。ダイナモにリード線をつなげば、何にでも-特に電球に-電力をあたえることができる。つまり、風車さえあれば、僕たちは電気が使えるようになるのだ。

風車があれば、ほかのマラウイの人々と一緒に7時に寝るのではなく、一晩じゅうでも起きて、本を読んでいられる。

しかし、それ以上に重要なのは、風車があれば、ポンプで水をくみ上げ、飲料水や灌漑用水に利用できることだ。

揚水ポンプを僕の家の浅い井戸につなげば、年二回の収穫が可能になる。マラウイじゅうが食糧不足になる12月と1月の時期にぼくたち家族はその年二度目に収穫したトウモロコシのたくさん詰まった袋を運んでいるのだ。

その本を見ながら、書棚のそばに佇み、ぼくは自分の風車を作ろうと決意した。

(ウィリアム・カムクワンバ著「風をつかまえた少年」P218-219より抜粋)

 

ゴミ捨て場から色々な部品を探して拾ってきます。ボロボロの材料で風車を組み立てました。ペダルをこぐと発電する自転車のダイナモを風車に接続し、発電する装置です。それを櫓の上にくくりつけました。とうとう彼は、全く自分だけの力で、ゴミ捨て場から拾ってきた材料で風力発電のための装置を完成させたのです。そして、ついにそれを動かす日がやってきました。

「これはなんだね?」

「風で電力を起こすんです。これから見せるよ。」

「そんなことはできっこない。」

ぼくの家族以外に30人ほどの大人が集まり、子供たちも同じくらいいた。彼らは僕を指さしていた。

「この子の頭がどこまでいかれているか、みんなで見届けようや。」

さぁ行け。きみの出番だ。

ぼくはスポークをつかむと、ぐいと引き抜いた。羽がまわりはじめた。

「もっと早くまわってくれ」とぼくは祈った。

ちょうどその時、強い風が僕の身体に吹きつけ、羽が狂ったようにまわりはじめた。

もう一方の手に握りしめた電球を見つめ、奇跡が起こるのを待った。

ちらりと電球が光った。

それがやがて煌々と輝く堂々とした光に変わった。

心臓が破裂しそうになった。

「見ろよ。」誰かが言った。「電気がついてる!」

「あの子が言ってたことはほんとうだったんだ!」

全員が信じられないと言った眼を大きく見開いていた。

「ぼくは狂ってなんかいない!そう言っただろ?」

見物していた人々がひとり、またひとりと喝采の声をあげはじめた。

「ワチタブイナ(よくやった)!」

「すごいぞ!ウィリアム!」

「まさか、こんなことをやってのけるなんて!」

(ウィリアム・カムクワンバ著「風をつかまえた少年」P264-267より抜粋)

 

この話はしばらくして、マラウイの大学の先生に伝わり、イギリスの放送局に伝わり、彼はTEDに2回出演しています。TEDとは多くの科学的な研究をした人がスピーチをする番組です。是非YouTubeでご覧ください。一回目は、彼は高校生の時に初めて呼ばれました。英語もまだたどたどしい頃です。その後、色々な方の援助で米国の大学に進学し、現在では世界中で啓蒙活動を続けています。この話は映画になり、今年の夏には日本でも公開されました。

これが最初の「創造的な人」の事例です。

 

 

中村裕さん(1927-1964)

1927年 中村裕(ゆたか)さんは大分県別府市に生まれました。

1952年 九州大学医学専門部を卒業後、 同大学の整形外科医局に入局しました。 福岡県の炭鉱労働者の事故と向き合ううちに、当時未開の分野であった医学的リハビリテーション研究の道を歩み始めました。

1960年  中村さんは、リハビリ研究のため欧米へ派遣されることになります。そして、英国のストーク・マンデビル病院で、脊椎損傷患者の治療で世界的な名声を得ていたルードヴィッヒ・グットマン博士の指導を受けることになります。グットマン博士は、ヨーロッパ中央部の生まれですが、ナチスの迫害を逃れて亡命してきたユダヤ人でした。

 

グットマン博士は、中村さんに「ここの脊椎損傷患者の85%は6か月の治療と訓練で社会復帰をしている」と語りました。中村さんは半信半疑でした。なぜなら、当時日本では脊椎損傷患者は「再起不能」が常識だったからです。重度障がい者といえば聞こえはいいですが、患者は「生きるしかばね」であり、「死んだも同然」の扱いを受けていたのです。「どうせ、日本の若い医者だからからかわれたのだろうが、もし何か特別な治療法があるなら日本に持って帰ろう」そう考えた中村さんは、グットマン博士の手術を見学しました。しかし、その技術は自分たちとあまり変わりませんでした。中村さんは他の医師に「どんな秘密があるのか」と尋ねると、「グットマン博士は神様でも魔術師でもないよ」と軽くあしらわれてしまいました。

その後も中村さんは「秘密」をつきつめようとレントゲン写真を調べたりしましたが、さっぱり分かりません。ところが、あるとき、回診の際に医者と看護師以外の人間が混じっていることに気付きました。それは当時の日本には存在しなかった、理学療法士や作業療法士、ソーシャルワーカー、就職斡旋員の人たちでした。そして、信じられない光景を目にします。

中村さんは、車いすの患者がバスケットボールをしているのを見て衝撃を受けます。「何だ、これは。考えられない・・・」当時の日本では、車いすの障がい者は社会生活を行うことさえ難しく、ましてスポーツをすることなど考えられなかったからです。

中村さんはグッドマン博士に聞きます。

「一体なぜスポーツなんですか?」

「彼らには腕力や全身の体力をつける事が必要なのだよ。彼らはこれからの人生の長い時間を車椅子で生活していかなければならない。だから自分の行きたい所に行けるようにならなければならんのだ。」

「自分の力で。」

「そう、そして、スポーツをするのにはもう一つ大きな意味がある。体のリハビリだけではなく、心のリハビリだよ。」

「スポーツをすればそれをとおして仲間も増える。それにスポーツをすることで自分に自信もついてくるし、自然と今までより明るく積極的な性格にもなってくる。障害という困難を乗り越えてでも、もう一度社会に出て自分の力で生きていこうという意欲がわいてくるんだよ。」

(「太陽の仲間たちよ」より抜粋)

グットマン博士の言葉です。

 『患者に、失われたものを数えるのではなく、残された機能を最大限に生かすことを教える』

『患者が完全に社会復帰できるまで面倒を見るのが医療である』

これは正に中村さんにとっての一転語だったのではないかと思います。

日本の常識では考えられない、しかし正しい博士の考え方とシステムに接し、中村さんは決意します。

「グットマン博士!私に障害者のスポーツのことをもっと教えてください。」

「日本の障害者にもやらせてあげたい。心の痛手を治してあげたいのです!」

ところがグットマン博士の反応は冷ややかなものでした。

「本当に君にできるかな?」

「以前にも君と同じことを言った日本人はたくさんいたんだよ。しかし、いまだに実行している者はだれもいない。」「おそらく君もその一人だろう。」

 

この言葉に挑むように、帰国した中村さんは、患者にスポーツを奨励することを主張しましたが、すぐに大きな壁にぶつかります。医師たちからは「せっかくよくなったのに、また悪くなったらどうするんですか。患者に何かあったら責任が取れるのですか?」「余計なことを考えるな。医者の仕事は患者を治療することだけで十分なのだ」と反対されます。

また、患者の家族からは、「あんたは、障害者を連れ出して、サーカスのような見世物をやって金もうけでもしようと考えているのか!?」とまで言われます。

今回、中村さんの一生を書いた本を何冊か読んだのですが、この方は、批判や障害が出てくるたびに、逆にそれをバネにして奮起するような印象を受けました。絶対に逃げない、絶対に他人のせいにしない、絶対にやり抜くタイプの方だと思います。

中村さんが帰国して1年くらいたった1962年、地元の医師や行政を説得し、当時世界で唯一の障害者スポーツ大会だった、イギリスのストーク・マンデビル大会に、二人の日本人選手を送り込むことに成功します。その費用は、すべて中村さんが借金し、愛車を売って工面しました。そして「君にできるかな」と冷めた目で見られていたグットマン博士からも「よく頑張ったね」と温かく迎えられたのです。

 

去年、中村さんの一生が向井理さん主演で、NHKでドラマ化されましたが、その題名は「太陽を愛した人~1964あの日のパラリンピック」ですが、中村さんは「東京パラリンピックを創った男」として知られています。

 

東京オリンピックの興奮冷めやらぬ1964年11月8日、中村さんの努力で23カ国428名が参加して東京パラリンピックが開催されました。中村さんは日本選手団団長に選ばれ、日本の成績は金メダル1、銀メダル5、銅メダル4で、全体では13番目という成績でした。大会は無事終わりましたが、中村博士は複雑な思いに駆られていました。外国人選手は試合後も行動的で明るく、ほとんどの人が仕事を持っており健常者と同じような生活をしていましたが、一方、日本選手は弱々しく顔色も暗く、53人中仕事をしているのはわずか5人、他は自宅か療養所で世話を受けていたからです。

中村さんは「これからは慈善にすがるのではなく、身障者が自立できる施設を作る必要がある」と解団式で述べました。

そして、中村さんは、パラリンピック終了からわずか1年足らずの1965年10月、故郷大分の別府市に、障害者が働き、生活することを支援するための施設「太陽の家」を開設します。障害者を保護することが目的だったそれまでの施設とは違い、仕事やスポーツへの参加機会を作ることで障害者が経済的に自立し、地域社会に溶け込む基盤としての施設です。開所当初は、設備が十分に整ってはおらず、小さな作業所で7名の障害者が木工や洋装などを行う小規模な仕事からのスタートでした。

当時、中村さんの病院では多くの脊椎損傷患者を抱えていましたが、一般企業への就職の道は閉ざされていたからです。保護や慈善ではなく「チャリティよりも働く機会を」「世に心身障害者はあっても仕事に障害はあり得ない。」がモットーでした。それにしても、病院の院長として回診をし、外来患者の診察もし、障害を持った子供の施設の園長を務めながら、関係先の役所や団体に交渉を続け続けた体力と気力は驚異的ですが、何よりもすさまじいまでのタイムマネジメントだったと思います。中村さんは本当に不眠不休の行動だったと思います。

中村さんは、その後満足に給料も払えない作業所のような仕事ではなく、近代的な最先端工場で社会復帰させ、きちんと給料を稼いで納税する側に立たせたいと願い、企業訪問を開始します。しかし、突然の訪問に、どこに行っても門前払いされる日々が続きました。

最初に道を開いたのはオムロンの創業者立石一真氏でした。「われわれの働きで われわれの生活を向上し よりよい社会をつくりましょう」という社憲に照らし、障害者の雇用を促進することを決め、「オムロン太陽の家」を設立します。次に、ソニーの井深さんとホンダの本田宗一郎さんが名乗りを上げます。

本田さんの言葉です。

“この世に『障害者』という人種はいない。また、同じ人は一人もいない。人にはそれぞれ他にはない個有のすばらしい『持ち味』がある。その違いを互いに認め合う中に、一人の人間としての自立が生まれる。”

 

その後、三菱商事、デンソー、富士通などが次々に共同出資会社を設立しています。現在は、施設入所者だった重度障害者が取締役工場長として経営に参画し、立派に社会人として使命を果たしていらっしゃいます。別府市にある「太陽の家」には、障害者が利用するために設計されたスーパーマーケットや銀行もあります。

 

9月に開催された「人を大切にする経営学会」主催の見学会で私も訪問してきました。

障がい者用のカウンターのある銀行、車いすでも操作できるATM、障がい者が働くスーパーマーケット、そして、現在の太陽の家の全体の理事長と坂本先生です。理事長は三菱商事で会長職を経て就任された重度の障がい者の方です。

壁にはこんな言葉が掲げられています。

太陽の家の未来

君達の幸福は、全て誰にもまけない高質度の製品を作る

君達自身の努力にかかっている

太陽の家の社員は被護者ではなく労仂者であり後援者は投資者である

 

当日、三菱商事太陽というITの会社で説明してくださったのは、耳の不自由な方でした。オムロン太陽の家では、手足が不自由な方が精密な部品の組み立てをしていましたが、障がい者の方々だけのこれほど大きな会社を見たのは本当に初めてでびっくりしました。

中村さんは57歳という若さで亡くなりましたが、それから数十年経った今では、中村さんがまいた種が大きく花開いているのだと思いました。

 

冒頭のメッセージです。

 

2年かかるか、3年かかるか、10年かかるか、分からないことを実現したいと「思い」、実践し続けている人がいたら、変人どころか気が狂っているように見えるかもしれません。

でも、それが「創造的な人間」になるための王道なのではないかと思います。

       

今日は、偶然や奇跡に頼らないで、苦難や困難の山を乗り越えて「創造的な仕事」をした人を二人ご紹介しました。

何か参考になれば幸いです。